古文書と最後の
木地師の道具

八幡平市博物館に展示されている日本遺産構成文化財のなかには、木地師の身分証ともいえる木地屋文書と、使用していた道具が展示されています。

藩政時代、盛岡藩では漆を重要な産業として奨励し、特産物として漆産業の振興を図っていました。木地づくりにおいても、安比川上流域に住む木地師のなかには、藩の御用木地師として年貢が免除されたり、御用の際に馬での送迎を許されるなどの特権が与えられるほど優遇されていました。

県指定文化財の「赤坂田・関家文書(あかさかた・せきけもんじょ)には、1806年に藩の命令で、左衛門四郎がおわんなどの木工品を製造する「御用木地師」を長年務めた褒美として、関家は農工商などの庶民が名字を称する「苗字帯刀」を許され、関左衛門四郎(せきさえもんしろう)と名乗ったと記されています。江戸時代の安代地区の住民は、米で納める年貢を漆器産業で得た銭で納めることもあり、漆が盛岡藩の財政基盤のひとつとして重要視されていたことが分かります。

同じく県指定文化財の「安比川上流域の木地師関係資料」は、ロクロを使って木の椀などを製作する職人・木地師の生業を考察する上で貴重な資料です。用具類は、安比川上流域で最後の木地師となった藤村金作(ふじむらきんさく)氏が使用したもの。木を削る際に使うカンナは職人ひとりずつ異なり、形状や種類、数もさまざま。木地の外側を挽くものと内側を挽くものとで使い分けていました。また、当時の木地師は自ら鋼を用いてカンナなどの道具をつくっていたため「鍛冶の仕事ができなければ木地師にはなれない」と言われていました。約259点に及ぶこれらの資料は、木地師がさまざまな道具で木地挽きをしていたことを知ることができ、木地挽きの製作工程を今に伝える資料です。

撮影:奥山淳志
写真提供:八幡平市

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