浄法寺の暮らしと歴史を学ぶ
浄法寺歴史民俗資料館

天台寺参道入口にある、浄法寺歴史民俗資料館。国指定重要文化財の漆関連資料3,280点を所蔵し、職人の道具や古い時代の漆器を展示。さまざまな民俗資料とともに安比川流域の人々が育んだ漆文化の特徴や歴史について知ることができます。

浄法寺地域の漆器づくりの始まりは古刹、天台寺にあるとされ、寺の僧侶たちが日々の生活のために自作した漆器が浄法寺塗のルーツと言われています。寺との繋がりを連想させる漆器として挙げられるのが、「御山御器」と「鉄鉢御器(別名:テッパチ椀)」。御山とは、地元の人たちが親しみを込めて呼ぶ天台寺のことです。「御山御器」は通常の椀よりやや小ぶりで、飯椀、汁椀、皿の三つの椀を入れ子にして仕舞える実用性の高さが特徴。「野良御器」「人足椀」とも呼ばれ、野外での作業の際に片手で三つの椀を持って手早く食事したという話が伝わっています。「鉄鉢御器」の名前の由来は定かではありませんが、僧が修行のために、経文を唱えながら家々を回り、施しを受けるときに使用した器「鉄鉢」からきたものかもしれません。時代を下るうちに寺の漆器は地域へと広がり、そこに生きる人の暮らしの一部になったと伝わっています。

一方、漆の採取法は、明治時代を境に大きく変化します。江戸時代以前に行われていたのは、「養生掻き」と呼ばれる、木を育てながら樹液を取る手法。漆の実は和蝋燭などの原料になることから盛岡藩は漆の木を手厚く保護していたといいます。それが明治期になると、廃藩置県により、関所も撤廃されたことで誰もが自由に日本全国を移動できるようになりました。それに加えて蝋の需要が低迷し、実をならせる必要がなくなりました。こうした時代を背景に明治初期に福井の方から「越前衆」と呼ばれる出稼ぎの人たちが「殺し掻き」の技術と道具を持ってこの地を訪れ、より多く、効率的に漆を採取する方法を広めました。また、殺し搔きによって伐採された漆材は非常に軽く、水に強いため、海で魚をとる魚網の「ウキ」に加工され、数千・数万単位で日本各地の漁港に送られたと記録されています。

撮影:奥山淳志
写真提供:二戸市

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